世界と僕とを繋ぐもの


   



乾燥機にかけていた制服はすっかり乾いた。
彼のノートは、数時間掛けてページが進んでいる。
僕は彼が問題を解く間、借りてきていた本を読み、彼に尋ねられたら教え、ということを繰り返していた。
テストまで一週間きっているが、僕のクラスでは普段から課題が多い分、直前に大量にということがなく、 急いでやらなければならないような課題もなかったので、僕は教師役に徹している。
教科は主に数学。
理数系は比較的得意な方なので、教えるのには困らない。

「止まないな」

僕の視線の先を察して、彼が声を掛けてきた。
今は暗く霞んだ外を見やっている。

彼自身にとってはたいした意味など無い動作だったのだろうが、僕は僅かばかり動揺していた。
彼の瞳に映ったかと思うだけで、心がざわつくのだ。

愚かしい。吐き気がしそうだ。

…それにしても、ただの夕立だと思っていたのだが、雨脚は一向に弱まる気配を見せない。
本格的に梅雨に戻ったのか、それとも夏を連れてくる雷雨となるのか、今の時点では分からない。
ただ、遠くで雷鳴が響いているのが聞こえるだけだ。

「せっかく乾かしたのに、帰る間にまた濡れてしまいそうですね」

なにがだ、と彼はどこか不機嫌そうに僕へと視線を戻した。

だいぶ根を詰めて勉強していたためか、彼は疲れているようだ。
どことなく飽きているような印象も受ける。

「制服が、ですよ。
そろそろお帰りになられる頃合いかと思ったんですが」

そろそろ夕飯時だ。
彼が家に電話を掛けている様子はなかったので、帰ると思っていたのだが。
彼はひどく驚いた様子を見せた。

僕は何か、妙なことでも言っただろうか。

「このまま、泊めてもらってもいいか?
どーせ、明日も休みだしさ」

…ああ、僕の忍耐力を試そうとでもしているのだろうか。

「勉強会をやったことがないくらいだ。
友達の家に泊まったり、逆に泊めたりなんてのもないんだろ?」

ええ、確かにありませんが。

言葉をにごして口ごもると、追い打ちのように微笑みかけられて。
僕は内心、頭を抱えた。

…不意打ちは、卑怯だ。

「いいですよ。じゃあ、勉強は一時休止にして食事にしましょうか」

冷蔵庫の中身を想起し。
作り置きのカレーがあったことを思いだした。

「外に出るのも億劫ですし、作り置きのカレーがあるんですが、それでもいいですか?」
「お前、料理なんかするのか?」
「できますよ。一人暮らしですからね。
炊事、洗濯、掃除は自分でやっているんですよ」

能力が発現して機関に入った後、中学を卒業するまで、機関の人間と住んでいたのだが、 その時に炊事、洗濯、掃除を一通り習っていた。
見よう見まねではあるが、現在一人暮らしをするのに困らない程度のことはできる。

「煮込み料理は多めに作ったら、小分けにして冷凍しておく。一人暮らしの知恵です」

彼が驚きと感嘆の混じった眼差しで僕を見ていた。
実家暮らしの彼にしてみれば、家事のできる高校生は珍しい存在なのだろう。

「食べられればいい、という基準で作ってますので味の保証はできかねますが、 それでもよろしければどうぞ召し上がってください。
温めるので、その間にお家に連絡なさったらいかがですか?」
「そうさせてもらう」

彼は机の上に置いていた携帯電話を手に取った。

僕も有言実行すべく、冷蔵庫に歩み寄る。
冷凍庫に入っているカレーのタッパを2つほど取り出す。

(この量だと、鍋で温める方がいいだろうか…)

ご飯はこれから炊くのだから、少しくらい時間がかかっても大丈夫だろう。
鍋で炊いた方が早いが、時計を見ればそれほど遅い時間でもなく、炊飯器で炊いても支障がないと考える。
1時間くらいすぐだ。

米を1人分より多くといで、炊飯器にセットしてから戻ると、彼はちょうど電話をかけ始めたところだったらしい。
耳元に聞こえるのだろうコール音に耳をそばだてていた。

「母さん?…俺。今日、古泉んとこ泊まってくからさ」

彼は照れくさそうに頭を掻いている。
おそらく、僕の前で家に電話をしているというシチュエーションが気恥ずかしいのだと思われる。
うつむくようにして電話をしている彼のうなじが無防備で、目に毒だ。

「晩飯?ああ、いらない」

触れたい衝動に駆られて、僕は気配を消して彼に歩み寄った。
耳元に鼻を近づけると、彼の匂いがする。

彼は電話に集中していて、この距離感には気がついていないようだ。

「…明日?……ああ、じゃあ、それまでには帰るから。
…ああ、言っておく。それじゃあな」

彼の妹とよく似た、彼の母親の声が何事か告げると、彼は通話を終えた。

そして、僕の存在に気付いて、俊敏な動きで振り返った。

「おまえ、人が電話してる間に近づいてんな!
顔が近いんだよ、気色悪い」
「あなたと二人きりという状況がどうにも落ち着かなくて…」

まして僕の部屋で、人目を気にする必要のない状況で。
彼はいつも通りに無防備なのだ。

彼だから、触れたい。
その体温を確かめて、できることなら抱きしめてみたいと思う。
それは受け入れられないことだと分かっていて、どうしても願ってしまう。

「ところで、明日は何か用事でもあったんですか?」

雨だからなのか、テスト前だからなのか、今週末のSOS団の活動はない。

「いーや。明日は親と妹が出かけて、夕飯になんか買ってくるんだそうだ。
だから、俺の分も買ってきていいのか、と」
「そういうことでしたか。
帰らなければならないとおっしゃっていたので、あなたもお出かけになるのかと思ってしまいました」
「俺が行っても荷物持ちになるだけだからな。親父だけで十分だろうさ」

当たり前のように、家族について語る彼を見ていると自分が特殊な人間なのだと自覚する。
僕にはもう、当たり前に語れる家族はいないことになっている。
僕が生きるのはただ一人彼女のためだけで、それ以外の人間に煩わされないようにと家を出たのだから。

それならば、このわき上がってくる淋しさのような感覚は何なのだろうか。
普通である彼への羨望か、それとも彼が僕のように特殊でないことを確認できたための安堵なのだろうか。

「では、明日の朝ご飯までは食べて行かれますか?」
「…そうなるな」
「一人で食べるのは味気ないものですから、あなたがいてくださって僕としては嬉しい限りですよ」

そう言って、僕は、心の底から、笑っていた。



その後、夕飯にカレーを食べ、僕が保有していた映画のDVDを見て、寝ることにした。

ベットは彼に譲り、僕は客用布団をベットの横に敷いた。
彼は自分が布団で寝ると言って聞かなかったが、半ば押し込む形でベットに寝かせると渋々といった体で、 僕に背を向けて横たわった。
すると、すぐに寝息が聞こえてきたので、どうやら、彼は頭を酷使して疲れていたようだった。
規則的な寝息を聴きながら、その音がひどく心地よいものだと気付いた。
その音に耳を傾け、そのリズムに同調していたら、いつの間にか僕も眠りに落ちていた。

あまりに心地よい入眠だったので、まさか、僕は夜中に、しかも泣きながら目覚めるとは思っていなかった。
おそらく、気がついたときの僕の顔は驚愕に染まっていたことだろう。

ごく稀にそのようにして目覚めることは過去に幾度かあった。
例えば任務の後。
疲れたからと早くに床に就くと、深夜、不意に目覚めるのだ。
そして、ごくたまに、僕の頬が濡れていて、その冷たさに驚くことがあった。
そういうときに限って、どんな夢を見ていたかさえ覚えていないのだが、 その涙が喜びによるものではないという漠然とした確信があって、僕は悲しくて泣いていたのだと考える。

僕の悲しみを喚起するような出来事といえば、少し前までなら、家族に能力者としての僕を否定され、 機関に入った頃の出来事しかなかったのだが、今見る夢の内容がそれではないと言い切れた。
今の、そのような夢に現れるのはきっと、彼だろう。
8割、いやもっと高いかもしれない。

それだけ僕は彼に執着していて、それを自身で自覚している。
古ぼけた旧校舎の文芸部室やそれ以外の場所で、そこに集う人間と過ごす時間は僕にとってかけがえのないものになっていた。
その中でも、彼の隣は特に居心地がよく、彼に近づいて触れたいと願うあまり無意識に近づきすぎて、 彼に「顔が近いっ!」と怒られてしまうほどだ。
「冗談です」と告げ、笑顔でごまかすと。
忌々しい、とでも言うように、顔をしかめても心の底から拒絶しているわけでもない態度を彼が取り。
ああ、僕は彼の傍らにいてもいいのだと、考えて。
心の底から安堵している自身を自覚するのだ。

それを自覚するようになってから、僕は家族の夢やあの時の喪失感を思い出すような夢を見なくなった。
新たな居場所を手に入れたからだろうか、と考えると、それが一番ぴたりとあてはまるような気がする。

僕は、彼の傍らから離れたくないと願うようになってしまった。

だからきっと僕は、彼に見捨てられる夢を見ていたのではないか。
夢の中で泣けなかった僕は、現実に涙し、その悲しみを紛らわそうとしたのではないだろうか。

だからこそ、僕は彼が消えてしまうことを心底恐怖している。
今は夢だけで済んでいるが、いつか、僕は彼の傍から離れなくてはならなくなるだろう。
それは決められた運命、というよりは、彼女の意向が十中八九そちらに向くだろうという不確定な想定であるのだが、 僕の無意識の部分でそれが現実になると予見してもいて。
だから、きっと、いつか僕は彼と共にいられなくなり、事実として彼は僕の目の前から消えることになるのだ。

そんなことはすでに分かっていたはずだった。
彼と出会う前。
僕の北高への転入が決まる前後には、彼女とその鍵たる彼と期限つきで身近な関係性を築くことになると分かっていたのだ。
ただの同級生として、一定の期間を過ごし、そして離れていくことになると。
多少の想定外の要素のせいで僕は彼女らに最も身近な機関の構成員となったわけだが、それでも、 別れだけはいつか訪れることだけは確定していたはずで。

それでも、僕は彼を愛せたことに歓喜し、彼を煩わせるもの全てを憎悪し、 いずれ彼と離れてしまうだろう僕自身の境遇を悲嘆し、彼の傍らで過ごす喜楽を知るのだ。
僕の感情はすでに彼に捕らわれ、彼だけが僕を突き動かす。
全ては彼と彼が生きる世界のために。
少しでも長く彼と共にいられるようにと願って。

いつもならば僕は、頬に散った涙を拭って、再び眠りに就くのであるが、今日はそうはいかなかった。
ベットの上で安らかに眠っていたはずの彼が、僕の泣き濡れた顔を食い入るように見つめていたからである。

「起こしてしまいましたか」

頬の涙を手のひらで拭いながら、いつも通りの笑顔を取り繕った。
このとき、本当に自分が笑っていたかは分からない。
それだけ僕は動揺していたし、彼の顔があまりに悲愴だったので、感化されてしまった可能性もある。

「古泉、お前、うなされてたぞ?」
「たまにあるんですよ。こうやって起きてしまうことがね。
まさか、あなたがいるときに、とは思ってもみませんでしたが」
「悪い夢でも見たのか?」
「まあ、そんなところです。起こしてしまってすいませんでした」

あなたに見捨てられる夢です、とはさすがに言えなかった。
言っても詮ないことだし、まして、彼に伝えれば、彼は気にするだろう。
それは僕の本意ではない。

「明日は早く起きる必要がないとはいえ、寝た方がいいですよ。
もう少し勉強をしてからお帰りになるんでしょう?」

『帰る』。
その単語を口にして、思いの外、その重さが胸にのしかかった。
明日になれば彼はここから帰ってしまうのだ。

「今回のテストであなたがそれなりの点数をとれるようになるまではお付き合いしますよ。
ですから、早く寝ましょう」
「…そうだな」

彼は歯切れ悪くそれだけ言うと、僕に背を向けて横になった。

僕がどんな夢を見ようが、どんな表情をしていようが、彼が帰ってしまうことは変わらないのだ。
それならば、彼に求められている分の働きをして、さっぱりと明日別れればいい。

そう考えていたのに。
彼に背を向けられてしまったのが、淋しかったからなのか、どうか分からないが。
僕の口は盛大に滑っていた。




「あなたを抱きしめて眠っても、いいですか?」




「…」
「?」
「…」
「…」
「…はぁっ?!」

…寝ぼけた頭で理解するのに時間を要したようだった。
たっぷりと間を空けて、彼は素っ頓狂な声をあげ、僕をすごい形相でにらんだ。

僕自身でも何故こんなことを言ったのか分からない。
ただ、その言葉が僕の願望を的確に表現していたことだけは間違いなく。
告げてしまった以上は、それなりの弁解をしなければならないだろう。

僕は動揺のまま起きあがって、彼を見た。

「あー、その、ですね。
僕はおそらく夢の中で淋しくて泣いていたんです。
なにせ、3年前に家族と離れてしまいましたから、人恋しくて泣いているんだと思います」
「自分のことなのに憶測なのか?」
「夢の内容まで覚えていませんから」

自分で言っていて、当たらずとも遠からずと思える辺りで、おそらく彼は信じるだろうと漠然と思った。

「男同士でくっついて寝るなんて鬱陶しいことこの上ない」

再び背を向けてしまった。
まあ、当然だろう。
流れのまま彼に抱擁を許可されでもしたら、僕は理性との戦いを強いられることになるだろうから。

彼がこの場にいるだけで十分だ。
眠りから覚めても彼と過ごせる時間があると思うだけで満たされる。
それ以上を望めば、きっと僕は彼と共にある今の生活を手放さなければいけなくなるに違いない。

「では、おやすみなさい」
「なあ、古泉」

背を向けたまま、彼が話し出した。

「何でしょう?」
「俺は、お前の家族にはなれないが、まあ、手くらいは繋いでやってやらなくもない。
目の前で家族を求めて泣かれるのは、うざったいからな」

ベットを譲ってもらった礼だ。
そう言って彼の手が僕の目の前に差し出された。
少し筋張った、でも、きれいな手。

僕は迷うことなく、その手をとった。

「…ありがとう…ございます」

今度は嬉しすぎて、目頭が熱くなった。
実際に泣きはしないけれど。
こうして僕は彼に溺れてゆくのだ、と思った。
僕は彼の手の温もりが、どうにも愛おしくて、彼の指に唇を押しあてていた。


―――――この世界に彼がいて、僕がいる。それだけでいい。
―――――それだけが『確か』であればそれでいい。




この後きっと、古泉はキョンに殴られた、はず。

初R-15にしようとして、断念しました。これからもきっと書けません…。
糖度の高い文になった自覚はあります。はい。
雨に濡れて古泉宅訪問が書きたくて、書いたお話。
ここまでのシチュエーションを作っておいて襲わない古泉は、ヘタレです(そんなヘタレに誰がした)

古泉の家の設定はもう、何となくのイメージで捏造しました。
私のイメージはあんな感じです。











SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送