世界と僕とを繋ぐもの


   1



僕はあなたを憎んでいます。
だって、あなたが無意識に望んだから僕にはこんな能力が授けられ、普通に生きることができなくなってしまった。
無理からぬ話でしょう?
僕はずっと、あなたが望むように生きてきました。
世界の崩壊を防ぐという建前のもとで、世界を変えられるあなたに抱いた好奇心を満足させるために、 一種ゲームのような感覚で僕自身で叶えられるあなたの願望は叶えて差し上げようと思ってきました。
その一方で、そう行動しなければならない自分を憎み、それをさせるあなたを憎んできたのです。

けれど、僕は今あなたに感謝もしているのです。
あなたが与えてくれたものがきっかけになって彼に出会うことができました。
彼と他愛ない会話をし、ボードゲームに興じ、彼が見せる多様な表情を眺めていられる時間ができました。
そして、彼に依存し、執着し、…もっと分かりやすく言いましょうか、彼を愛することができて、 僕は人を愛する心地よさを知ったのです。
彼が僕を人間らしい方向に引き戻してくれました。
僕は彼が、どうしてこんなに、と思うほど愛しくてなりません。

この感情はあなたの意に染まぬものだと思いますから、隠し通そうとは思っていますが、 それでも、彼と出会わせてくれたあなたには感謝しなくてはと常々思っているんですよ。
僕は彼と出会ったから、あなたを憎んでいると認めることができたんです。

彼はあなたの指先につながる、僕からのびた透明な糸をすっぱりと断ち切ってくれたんです。
あの面倒くさそうで緩慢な動きで。
あの困ったような笑顔で。
今まで断ちようがないと思っていたすべてから、彼は僕を自由にした。



雨に降られてしまった。
夕立。
雷雨だった。

部室でオセロをしてたときに、テスト前だからと彼に求められて勉強を教えるのに、 一人暮らしの僕の家までやってきたのである。
まだ夕暮れには早い、でも、昼には遅い時間。
学校を出た時点で風が湿り気を帯びていたので危ないとは思っていたのだが、駅に着いた瞬間に降られるとは思っていなかった。
駐輪場で自転車を引き出した彼と、僕の持っていた2人には少し小さい折りたたみ傘をさして帰った。

『機関』が高校に通いやすいように、『鍵』の監視がしやすいようにと用意した、 駅からほど近い1DKの小さな、比較的綺麗なアパート。
その2Fの、一番奥が僕の部屋だ。
『機関』に属するようになってからは、夜間の呼び出しを受ける都合もあって、親元を離れた。
高校に入学して1ヶ月間はここより少し遠い分譲マンションに住んでいたが、 監視のために転校するにあたって、急なことだったからとここをあてがわれた。
前の部屋は1人で暮らすにはいささか広すぎたので、今くらいがちょうどいいと思っている。

「濡れてしまいましたね」

夕立だからと駅前で時間を潰していてもよかったのだが、そうしなくてよかった。
雨は更に強くなっていた。雷鳴がだいぶ近い。
この中を帰ってきていたら、制服のズボンの裾が、おそらく今の倍濡れることになっていただろう。

「これくらいどうってことないさ」

湿気でぺたりとした髪をつまんで、彼が言った。
幼い仕草が可愛らしくて、僕はつい笑みを深めた。

「なにがおかしい」
「いいえ」

彼が憮然としている様子すら可愛くて、顔がにやけてしまいそうだ。
鍵を開けるのに集中しているフリをして、彼ににやけ顔をみせないよう顔を背けた。
その一瞬で、表情を取り繕い直す。

「どうぞ。狭い部屋ですが」

ドアを開けて彼を招き入れた。
ああ、と気のない返事を一つして、彼は中に入る。
興味深そうに目を大きくして、部屋の中を見ながら。

「まずは、タオルですね。濡れてしまいましたから」

玄関で靴を脱ごうとして、自分が濡れていることを気にしたのか、僕を振り返った彼と視線が合った。
僕はいつも通りの微笑を一つ浮かべて先に部屋の中に入り、タオルを手にして彼の元に戻る。

「風邪をひいてはいけませんから、どうぞシャワーでも使ってください」

玄関からほど近いバスルームへの扉を開きながら、彼を促した。

「俺はいい」

暗にお前が先に使え、と言っているようだ。

「自転車を押していたせいであなたは全身びしょ濡れでしょう? 遠慮なさらずにどうぞ。
着替えもお貸ししますから」
「お前が先に使え」
「僕はいいですよ。
濡れたのは足と左肩だけですから、着替えれば済みます」

夏の雨だったせいか、それほど寒くは感じなかったのだ。

このとき、僕は彼に風邪を引かせないことだけしか考えていなかった。
風邪を引いて寝込んだ彼を見舞うというシチュエーションも魅力的ではあったが、彼には元気でいてほしかったのだ。

「僕がついていて、あなたに風邪をひかせたとあっては涼宮さんに顔向け出来ませんから」

涼宮さんの名前が効いたのか、彼は渋々ながらも頷き、僕の指し示す方向に消えた。

僕は、ドアが閉まったのを確認しながら、自分の頭にもタオルをかぶせ、溜息をついて座り込んだ。
せめて髪の毛くらいは拭こうかと思ったが、そんな気力も尽きてしまった。
髪の毛からしたたる水滴がズボンを更に濡らしてゆく。
これでは、彼にした言い訳が嘘になってしまう…。

義務感だけで髪をさっと拭い、彼が出てくる前に、とクローゼットを開けた。
適当な服を手に取り、それを手に持ったまま、その場に座り込んだ。

彼を見ていると否応なく余計なことを考えさせられている自分に気づいて、溜息がこぼれ落ちる。

僕は3年前から自分には欠陥があって、その事実を自覚できるだけの理性を持ち合わせていたが、 一方でその欠陥の深刻さを理解できるだけの客観性を欠いた人間だった。
類似経験なしに感情を想像するのは難しく、客観的に考えようがないというのも一因だが、 僕自身がそれを客観視しようという意欲に欠けていたことにこそ端を発しているように思う。
何かが欠落していようとも僕は僕で、一般論に囚われた他者に僕自身を分かりやすい存在として 受け入れられる必要などないと思っていたのだ。

ただ存在して、僕の義務をまっとうしていればそれでいい。

思いのこもらない言葉はただ、球体上を滑っていくようで空虚だ。
真理を求めた人々の言葉を借りて話して、伝聞する役目しか果たさず、僕自身の糧になることはほとんどないのだ。
上辺だけの言葉を並べるのは簡単で、労力を必要としない。

努力するのは億劫だった。
ただ、表面だけを取り繕っていればいい。

…これでは人間ではない。傀儡と同じだ。
そして、僕にはそんな傀儡のような生き様が似合いだと自嘲気味に思ったことがある。
そうとしか生きられないだろうと以前は確かに思っていた。

だが、彼という存在が現れてから僕の中で何かが変質していくのを感じていた。
例えば、世界という閉じられた空間に僕と彼と、意思を疎通する術さえあれば世界を構成する他の要素全てが消え去っても、 少なくとも僕は、何とも思わないだろう、と思い始めた頃から、僕は彼が特別だと認めざるをえなくなった。
もちろん、世界を作るありとあらゆるものは彼にとっては必要なもので、例えばSOS団の団員であり家族であり彼女である、 それらが無くなれば僕の知る彼ではなくなるだろうとは思う。
ただ僕にとっては、彼だけが特別で、彼以外の存在が億劫だというだけの話で。
彼がいるから僕はまだ世界を見捨てずにいられて。
世界を救うための力を持つ自分の存在にも価値を見いだしていられる。

ただの義務感で世界を守っていた今までが嘘のように、彼のために世界を守るこれからが嬉しいなんて、 僕はどちらにしても、欠陥のある人間なのだろうと思う。











SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送