この世界に存在する奇跡






夏が来た、と不意に、実感を伴って自覚するのは、どんなときだろう、と考えたことがある。
数値じゃない。客観性でもない。
ただ己の主観でもって夏を自覚するのは、俺の場合、触覚と嗅覚じゃあなかろうかと思うのだ。
風が湿り気を帯び、日差しが肌を焼くようになるにつれて独特の、夏の匂いというやつを運んでくるようになる。
肌の痛さと何とも言えぬその匂いを感じて、初めて、ああ、夏だと思う。

夏の訪れはいつだって突然だ。
気象庁が梅雨明けを宣言する前から、夏を実感することもあるし、 逆に梅雨が明けてから寒い日が続いて、本当に今は夏なのかと疑う年もある。
真夏日になったから、夏休みに入ったから、客観的な部分で夏だと思っても主観的に、 感覚的に夏だと思わなければ、俺は夏を自覚できないんだろうと確信めいた直感で悟るのだ。

どうして、と問うのは無駄なことだ。
そういうものだから、そうとしか言いようがない。
考えても無駄なことなんて世の中には腐るほどある。

俺が何故、ハルヒに付き合ってやってるのか、とか。
長門の表情の変化にどうして俺だけが気づけるようになったのか、とか。
毎日律儀に文芸部室に通って、朝比奈さんのお茶を飲むだけでなく、古泉との、 勝つと分かっている、ボードゲームの勝負に興じるのか、とか。

これら全ての疑問は、俺が何故、SOS団の一員として活動に参加しているのか、という根本的な問いに帰着するわけだが、 それは単に、長門の言葉を借りて言うならば「ユニーク」の一言に尽きるわけで、 何故そう思うのか、そう思うからといって何故参加するのかと言われても何となくとしか答えようがない。

このように、物事は往々にして曖昧な場合が多く、確かな意志を持って常時行動している人間に 少なくとも俺はなりようがないので、何となくしたいと思うことを日々やっていくしかないのだ。

つまるところ何が言いたいのかというと、世の中には頭で理解できないけれど確かに知覚できることや 起こってしまうことがあると言いたいわけなのである。



7月に入り、まだ梅雨明けが宣言されるまでにはまだ間があるというのに、文句のつけようがないくらい夏だった。
梅雨前線はどこに行ったんだと、訴えたくなるくらい暑い。
扇風機一つでこの文芸部室の、雨雲の忘れ物とでも言うべき湿気に満ちた空気を払拭することなど できないことは分かっているが、それでもそれを願わずにいられない程度には暑い。

にも関わらず。

俺の目の前にいる古泉というヤツはワイシャツの第一ボタンまできっちりと締め、 ネクタイをゆるめることもせず、かつ、シャツの裾をすべてズボンの中にしまい込んでおきながら、 額に汗一つ浮かべず、いつも通りの微笑を浮かべて、思案していることをあごに手を当てることで示し、 俺の持ち駒である黒の優勢なオセロ板を見つめていた。
嫌味なほど絵になる仕草をとり、涼しげな顔をしているのが実に忌々しい。
この暑さが俺一人に集中的に向けられているから、こんなにも涼しげにしていられるんじゃあないかと、 そんな理不尽なことを考えてしまう位、古泉の状態は不自然だ。
何か種が仕掛けられているのではないかと疑いたくもなってしまう。

まあ、実際にはそんなことがあるはずもないのだけれども。
この部屋の中に俺と古泉しかいないという状況がいけないのだ。
暑苦しさが際だって見える。

「朝比奈さんは鶴屋さんとお出かけだそうですが、他のお二人はどうしたんでしょうね」

見当違いな場所に白駒を置きながら、古泉は不思議そうに首をかしげた。
おい、そこじゃあ、お前の領地は減るだけだぞ。
もうボロ負けは確定しているが、もう少し頑張ってもいいだろうに。
思っても言ってやろうとは思わないが。

それにしても、今日は朝比奈さんは来ないのか。

「聞いてなかったのか?
ハルヒは『今日は休みよ!』とかいってHRが終わると同時に教室を飛び出していった。
長門はお前が来る少し前に帰ったぞ」
「そうでしたか。では、今日は僕とあなた、二人だけということですね」

俺の幻聴でなければ、「二人だけ」の部分がやけに強調されていたような気がするんだが。
まして、古泉の笑みがやけに深くなったような気もするのだから、これは幻聴ではないと思われる。

男同士で二人きりなんて、この暑苦しさが更に増すだけだと俺は思うのだが。
超能力者であるという点以外でも、古泉一樹という人間は本当に意味不明だな。

そして俺も、朝比奈さんのお茶が飲めないと分かった上で古泉と二人きりで部室にいてもいいかと思っているあたり救いようがない。
テスト前だからといって、必死こいてテスト勉強するわけでもないしな。

「お前は、テスト勉強とかしないのか?」
「テスト勉強、ですか?」

まあ、純粋な興味というやつだ。
理数コースの秀才が一夜漬けでなくどんな方法で勉強しているのか、興味が湧いたのだ。
暇だからな。

「僕は特別、テスト前だからといって勉強したりしないんですよ。
授業を聞いていれば、ある程度理解できますから。
あとは宿題やテスト前の課題があるでしょう?
それで取りこぼしを補完すれば、ある程度の点数はとれるようになりますよ」

…頭の出来が違うことだけはよく分かったよ。
俺には無理だ、そんな勉強法。

「よくドラマなどで図書室や自宅に集まってテスト前の勉強をしている光景があるじゃないですか。
僕はそういったシチュエーションに縁がなかったものですから、憧れてはいるんですよ。
楽しそうじゃありませんか」

あれは苦肉の策だ。Give and Takeと言ってもいい。
できないなりに知恵を絞って、できる限りレベルを上げようと考えた結果として編み出された方策なのだ。
…楽しいだけじゃあないんだが、お前には到底理解できないだろうな。

「僕はいつだって機関の任務優先でしたから、他人と生活時間を合わせて、ということができなかったんです。
友人との付き合いよりもそちらが僕には重要でしたからね」
「じゃあ、やってみるか?勉強会的なもの」

するりと口をついて出た言葉に俺は驚いた。
古泉も「え?」と間抜けな顔をして驚いていた。
俺自身が驚くくらいだ。古泉にはまさに寝耳に水の発言だっただろう。

「ただし、俺はお前に教えられはしないからな。
お前が教えるだけになってもいいんなら、付き合ってやってもいいぞ」

俺は何故こんなことを言ってしまったんだと、即座に後悔したが、古泉があまりにも嬉しそうに微笑しているのを見てしまって、 何も言えなくなった。
驚きと、困惑と、喜びの混じった微笑。
それを造作のいい顔でされたら、何も言えなくなるに決まっている。

「本当に、あなたは…」
「なんだよ」
「いえ、ありがとうございます」

男と二人だけで勉強会するのがどうしてそんなに嬉しいのか、甚だ謎だ。
礼を言われる筋合いもない。

だが。
そんな、掛け値なしに綺麗な笑顔を向けられたら、どんな人間でもそれを叶えたくなってしまうじゃあないか。
本当に、無意識にとはいえ、卑怯な男だ。

「では、僕の家に行きませんか?
教科書は一通りそろっていますし、なによりも冷房がつきます」

冷房。
その単語につられた俺は、即座に頷いていた。



古泉の大敗が決まっていたオセロを片付けた俺たちは、帰宅部の生徒の姿がまばらになった中途半端な時間に山を下ることにした。

教室に置きっぱなしにしている教科書を取りに行くのも面倒だったので、古泉が家に置いているという教科書に頼ることに決めて、 俺と古泉は連れだって部室から真っ直ぐ正門を目指し、そして、町並みの見渡せる通学路を並んで歩くこととなった。

夏の風が俺の意識をさらっていく。
まばらにある人影も隣を歩く古泉の気配も俺の意識の外に追い出され。
あるのは夏の日差しの熱さと夏特有の湿り気を帯びた空気の匂いだけ。

ああ、夏だ、とわけもなく思う。

風が吹き抜け、木の葉がさらさらと鳴るのを聞いてから、俺はふと隣を歩く古泉を振り返った。
視線がかち合う。
同時に、甘い香りが風に乗って俺の元に届いた。

鼻腔の奥をくすぐる、花のような甘さを帯びた香りだった。
夏よりも春に似合いそうな香り。

再び風が頬を掠め。
俺が風上を振り返ると、また、古泉と目があった。

「どうかしましたか?」

長い前髪が風に揺れた。

「おまえ、なにか…」
「何です?」
「なんか、匂いがする」

いい匂いがする、とは面と向かって言えなかった。

「においますか?汗、ですかね」
「いや、そういうんじゃなくて、もっと、香水みたいな…」
「香水、ですか?」

古泉が困ったように苦笑した。

「僕がそういった類のものをつけるほどの洒落者に見えますか?」

つけていてもおかしくない、とは思うが。

「いいえ、つけていませんよ」

整髪料もつけていません、と聞いてもいないのに念を押してきた。

じゃあなんでそんな匂いが、と考えて、問いかけようとして思いとどまった。

男が男に「いい匂いがする」なんて言ってなんになる? 賛辞にも、罵倒にもなりやしない。
古泉が俺に必要以上に顔を近づけてくるのと同じような、ただの気色悪い行為になってしまうではないか。
甘い、春のような香りなんて形容、何とも思っていない人間に、無意識にでもできるはずがなく。
かといって、どんな形にせよ、特別に思っているようなことを告げるなんてできるはずもない。

きっと、俺の頭は暑さにやられて、いかれているのだ。
そうでなければ、熱病に浮かされたようなことを思ったり、考えたりするはずがないのだから。

朝比奈さんなら、と考えて。
朝比奈さん相手ならば、ここまで懊悩することはなかったと気づいて。
懊悩してしまうほど、古泉を気にしている自分に気づいて…。

頭が沸騰したように熱くなった。

「どうして、僕が香水をつけているなんて発想に至ったんですか?
…どうかしましたか?顔が赤いですが…」
「どうもしないっ!」
「熱中症などではありませんか?」

そちらの方がどんなにかよかったか…。

俺が黙り込んだのを肯定と取ったのか、古泉が俺の額に手を伸ばしてきた。

「頭がふらつくようなことはありませんか?
僕がついていながらあなたを倒れさせたとあっては申し訳ができませんからね。
辛かったら遠慮なくおっしゃってください」
「いや、本当に大丈夫だから。ちょっと暑いだけだ」

俺よりも体温が低いらしい古泉の手を強引に振り払うと、また、あの匂いが香った。

「香水のことも俺の気のせいだ。そんな感じの匂いがしたような気がしてな」

俺に振り払われた古泉の手が、前髪をさっと払った。
古泉のまつげが長いのが見えて、こいつはこんなところまで恵まれてるのかと思って、少ししゃくに障った。

「何ともないんでしたら、いいんですけどね。
本当に無理はしないでくださいよ」
「このクソ暑い時期に坂を登るのが嫌だからといって、俺が欠席するようなことになったら、ハルヒがうるさいからな。
体調を崩したくても崩していられやしない」
「それもそうですね」

古泉が呆れたように、微笑んだ。
ハルヒならそうしかねないと納得したのかもしれなかった。

その後、俺と古泉は俺の自転車を回収するために駅前の駐輪場へ行くわけだが、そこまで無言で歩いた。
話すことは特になかったし、居心地が悪いわけでもなかった。

俺は無言で景色を眺めながら。
風が吹くたびに隣から漂う春の匂いを感じながら。
つらつらと、隣の暑苦しい格好をしている男のことを考えていた。

先程触れた手のひらから古泉の体温が少し低いことが伝わってきて。
だから、こいつはあんな暑苦しい格好をしていても平気なのかと納得して。
何となく、気持ちがすっとしたような、気分がよくなったような。
そんな風に思っていた。





いつのまにか古←キョンになってましたよ。
鈍感な古泉の可愛さに少し目覚めてみたり。
…あ、でも、全部分かってる上で鈍感なのを演じてたりしても素敵です。

古泉のイメージは私としては何となく春なんですよ。
好きサイトの影響も受けているとは思いますが、転校生だって辺りも影響してるかもしれません。
彼は春が似合います。
桜と古泉。いや、いい光景ですね。




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